晩♨

呟くには大きすぎる気持ちを綴る場所

語りたくても語れないこと

僕が自分の好きなことを共有したがる性質だってのはご存じのことと思います。
特に心に響いたゲームのシナリオについては感想を喋りたくて仕方がありません。
でも実のところ、ゲームの物語やキャラクターについて誰かと語る機会はあまり多くはありません。


その理由や原因について最近よく考えていて、なんとなく言葉にできそうな気がしてきたので、今回はそれを書いていこうと思います。

 

 

世の中にはいろんなタイプのゲーマーがいます。
対戦相手と競い合うのが好きな人。自分のプレイスキルを磨くことに時間を費やす人。
アクションが得意な人。じっくり考えるのが得意な人。ゲームに不慣れで苦手な人。カジュアルに遊ぶ人。

 

そういった千差万別のプレイスタイルがあるなか、僕はかなりロールプレイに重きを置いたスタイルを持っています。
思えば昔から、おままごとが好きでした。

 

共感、感情移入、自己投影が無意識のうちにフル活用されているようで、ゲームではプレイヤーの感情移入を促すために「喋らない主人公」がデザインされることも多いですが、僕は主人公が普通に喋ってても100%感情移入ができるタイプです(あまりに自分の想定と違いすぎる場合を除く。ただし、倫理観とか常識とかも物語に入り込む時点でその世界で描かれるであろう範疇にチューニングされるので、基本的に自分のロールプレイが裏切られることはありません)。

 

主人公以外でも、1人1人のキャラクター(村人Aであろうと)に強い愛着を持ち、感情移入をします。すっっっげー明確に”成敗されるべき悪役”として描かれているキャラクターはそれほどでもないですが、でも世界丸ごとで見たらそういうキャラクターを含めて大好きになっています。

 

そんな僕は物語を解釈するとき、「誰しも幸せになるためにその世界を生きている」というポリシーを常に心に留めています。キャラクターの1人1人を人間としてリスペクトし、彼ら/彼女らの幸せを心から願って物語を読み進めます。

 

でも、そこまでキャラクターに入れ込むことはあまり一般的ではないようです。
ポケモンをそういう姿勢でプレイしていた僕を見た兄が、僕の重い愛に引いていたのはもう10年も前のことですが、そのときに感じたショックは今でもよく覚えています。

 

僕にとって物語に全身全霊で入り込むことは、他の何にも代えられない素晴らしい体験です。
しかし、そういった「普通からは少し逸脱した姿勢」で物語を楽しむことは、「普通」の感性に触れてしまったときにショックを受けてしまう危険性をはらんでいます。

 

キャラクターにリスペクトを持たない発言に出会うととても傷ついてしまい、それ以降その人と会話をするのが怖くなってしまうほどです。発言者には悪気も非も一切ないということを頭ではわかっていても。

実際、今も会話をするのが怖い人が何人もいます。

 

だから誰かと会話をするときは、心に防波堤を築いておかなければなりません。

 

自分の心と他人の心は違う温度なのだということ。その温度差は罪ではないのだということ。

 

でもそうやって鎧を着こんだ感性で、楽しく感想を語り合うことはできるのでしょうか?

 

もっと怖いのは、僕の物語の楽しみ方で、他の誰かを傷つけてしまうことです。
僕自身そういう地雷を割とよく踏み抜かれるので、そうやって傷ついたときのつらさは知っているつもりです。好きなことをとても繊細に扱っているなら、それへの思いを人にぶつけることは本当に本当にリスキーなことなのです。

 

だから僕は好きなことについて人と語ることが少ないんだと思います。
もしそれが不可避の場合、なるべく一歩引いて、いや百歩くらい引いて、自分の自分じゃない部分で喋ります。
あんまり楽しくないし、それでもやっぱり傷つくことはあります。

 

こうやってひとりごとのように感想を綴ることは、特定の誰かに向けた話ではないという点で、ありのままの自分でいられる機会とも言えます。

 

そういうわけで、物語を読んだりして感情が大きく揺さぶられたとき、誰かと語るのではなくブログなどに文章を出力することを選ぶんだと思います。

 

考察おわり。